理論 『答』ではなく『考え方』を学ぶ

ひとつ、たとえ話をしよう。

ある日の学校で、教師から数日後に小テストを実施すると予告された。
テストは漢字テストと計算テストの2種で10問ずつ、「教科書の○頁~×頁」と出題範囲も通知されている。
あなたは生徒であり、この小テストになんとしても合格しなければならないが、その自信がなかった。
そこでカンニングによってテストを乗り切ろうと考えた。
果たしてうまくいくだろうか。

漢字テストに限ればカンニングによって乗り切れる可能性はあるだろう。
出題範囲の○頁~×頁に載っている漢字のうち、覚え切れないものを小さな紙にでもメモしておけば良い。
褒められた手段ではないし、教師に見つからずにやり遂げられるかという問題はあるものの、10問程度の小テストを乗り切る手段としては十分に効果的と言える。

だが計算テストのほうはどうだろう。
漢字テストと同じように、カンニングによって乗り切れるだろうか。
……少なくとも単純に答をメモするだけでは不可能だ。
仮に教科書に載っている例題の答を、問1=81、問2=40……のようにすべてメモしたとしよう。
しかしこのカンニング用メモが活きる見込みは薄い。
教師がこれらの例題をそのまま出題するとは限らないからだ。
数式の数字を少し変えるだけで問題はまったく異なるものとなり、当然、答も例題とは変わってしまう。
メモ通りの答を書いたところで不正解となるのではカンニングする意味がない。

計算テストは元の問題を少しいじるだけで『類題』が簡単に作れる、ここが漢字テストとの大きな違いだ。
『類題』は無数に存在し、そのすべてが個別の答を持つ。
いくらたくさんメモを作ったところで、到底対応しきれるものではない。
カンニングという手段が通用しないのだ。
予告の段階で教師が、教科書の例題を「数字まで完全にそのままで」出題すると宣言したならばともかく、そうでないなら計算テストにおいてカンニングは効果的ではないということになる。

無数に存在する『類題』に対処するには、問題を解くための『考え方』を理解する必要がある。
たとえば「分数の割り算」ならば「ひっくり返して掛ける」という処理を知っていれば解ける。
「三角形の面積」ならば「底辺×高さ÷2」、「二次方程式」ならば「平方完成」である。
中学~高校の数学では「公式」なるものを暗記させられた人も多いかと思うが、この「公式」はそのまま「解法」=『考え方』としても使えるものが多い。
こういった『考え方』を知っていれば、その分野においてどんな『類題』が出題されても問題ない。
すべて同じ方法で解けるのだから、何問だろうとまったく苦にならないのである。

たとえ話はここまで。
ここからが本題。

ちょっと前置きが長くなってしまったが、私が言いたいのは要するに、

将棋にも『考え方』が存在する。

ということだ。

私は将棋というゲームが、計算テストに近い性質を持つものと考えている。
対局相手が出題する『局面』という問題に対し『着手』という解答を返す。
このとき出題者は指し手を変えることで『類題』を作ることもできる。
平手の場合は対局者双方が共に出題者であり、解答者でもある。
駒落ちの場合は上手が出題者、下手が解答者という構図がより顕著になる。

物事の性質が近いのならば、それを学ぶ者がとるべき態度も、おのずと似通ってくる。
つまり将棋に関しても、『答』を覚えようとするのではなく『考え方』を学ぶという態度で臨むべきなのだ。

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この記事の8図)

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この記事の6図)

まったく違う2つの局面。
A図は九枚落ち、B図は十枚落ちと手合すらも異なっているが、『考え方』はどちらも同じ。
このブログで何度も語っている『方針』がそれだ。

・『攻め駒を玉に近づける』
・『2対1で攻める』
・『玉を端に追い詰める』

A図からは▲3四龍△1三玉▲3二馬とすれば下手玉は詰まないので勝ち。
B図は▲3二龍△5一玉▲5二龍で詰み。
設定は異なるが、同じ『考え方』で解ける2つの問題。
つまりA図とB図は『類題』であると言える。

異なる局面、異なる指し手の中に同質性を見いだすことで、将棋というゲーム全体に通用する一般的な知見を得ていく。
これが将棋を学ぶということの本質だと、私は考える。